「認知症になる」とは~「ボクはやっと認知症のことがわかった」読後感想~
「長谷川式」
「認知症の検査」と聞いて最初に思い浮かべるのは、「長谷川式」ではないでしょうか。
とても簡便で、物品記銘に使う道具さえあればどこででも短時間でできて、認知機能をざっとスクリーニングすることができます。
「長谷川式」の中身等はまたどこかでまとめたいと思います。
この検査を作ったのが、長谷川和夫先生です。
先生は当時「痴呆」と呼ばれていたその名称を、「認知症」に変えた方でもあります。
そんな認知症の第一人者である長谷川先生自身が認知症になったと知った時は、なんだか人智を越えて深淵なものを感じてしまいました。
長谷川先生は自身が認知症であることを公表し、当事者として「認知症とは」ということを伝えてくださっています。
今回は先生の著書
「ボクはやっと認知症のことがわかった
自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言」
の感想を書かせて頂きます。
認知症の方の世界~記憶との関連~
自分の体験の「確かさ」が、はっきりしなくなってきたのです。自分がやったこと、やらなかったことに対して確信が持てない。たとえば、自宅を出てどこかに出かけるとき、鍵をかけたか不安になっても、たしかに鍵をかけたと思えば、そのまま出かけるのが普通です。あるいは不安なら、一度戻って鍵がかかっているのを確認して、それ以上は心配せずに出かけます。それが正常な時の反応。でも、確かさが揺らいでくると、家に戻って確認したにもかかわらず、それがまたあやふやになっていく。いつまでたっても、確信が持てないのです。
(同書p18)
認知症の方に記憶障害があることは知識として知っています。
この方の近時記憶はこのくらい、と何となく把握してお話してはいます。けれど、「忘れてしまう」ということが、実際どんなものなのか。その不安は想像するしかなくて、曖昧なものでした。
「確信が持てない。確認しても、それがまたあやふやになっていく」
長谷川先生のこの言葉に、なるほど、と思いました。
私たちは確かに鍵をかけたと「確認した」ことを覚えていられるので、安心して出かけることができる。
けれどそのエピソードをまるっと忘れてしまえば、いつまでたっても心配なままです。
「覚えている」ということは「確かさ」に繋がる。
「確かさ」が揺らぐので、不安になる。
認知症の方で過度に不安になったり、依存的になったりされる方がいらっしゃいます。
その方たちの不安はこの「確かさが揺らぐ」部分にあったんだなと納得しました。
~調子の波~
認知症は「固定されたものではない」ということです。普通のときとの連続性があります。…(中略)…認知症は固定したものではない。変動するのです。調子のよいときもあるし、そうでないときもある。
(同書p66)
認知症の症状に波があることは、認知症ケアに携わったことのある方々は何となく感じることがあるのではないでしょうか。
長谷川先生の場合は、朝調子が良くて、疲れてくる夕方辺りは負荷がかかってくると仰っています。
認知症のタイプや個人によっても波があるか無いか違ってくるのかもしれませんが、どのタイミングでベストなパフォーマンスができるかは知っておきたいですね。
「認知機能に浮動性があるのかもしれない」と思って評価することも大切だと思いました。
自分が一回見たそのパフォーマンスがベストではないかもしれない。
たまたま調子の悪い時だったのかもしれない。
逆に、自分が見たその時がとても調子の良いときだったかもしれない。
そのパフォーマンスを常時発揮することは難しいのかもしれない。
たった一度の評価でその方の能力を見切った気にならないで、様々なタイミングで評価ていくことで、見えてくるものがあるのだと思います。
長谷川先生のように、調子が良い時と悪い時の波がある程度固定化しているなら、その調子に合わせたケアが提案できます。
調子の良い時に、その方の得意な事・できる事をやってもらう。
調子の悪い時は、ある程度ルーティン化した事や受動的に楽しめる事を行う。
認知症の方の波をつかんで、そんなケアの提供を目指していきます!
~認知症になっても、「私」は「私」のまま~
まず何よりもいいたいのは、これは自分の経験からもはっきりしていますが、「連続している」ということです。人間は、生まれたときからずっと連続して生きているわけですから、認知症になったからといいて突然、人が変わるわけではありません。昨日まで生きていた続きの自分がそこにいます。
(同書p66)
認知症は進行性の疾患です。脳卒中のように、ある時突然症状が出現するわけではありません。
じわじわと脳細胞が壊れていき、それに伴って徐々に症状が現れてくる。
考えてみれば、人間は変化していく生き物です。
赤ちゃんが子どもになり、大人になっていく過程は大きな変化の連続です。
赤ちゃんだった私と大人になった私は見た目には大きな違いはあるけれど、どちらも同じく「私」です。
「認知症」という病気も変化をもたらします。
目には見えない変化です。成熟した脳が、壊されていく。悲しい変化です。
けれど他の変化と同様、変化しても「私」が「私」であることは変わらない。
人間は「連続している」。生まれてから死ぬまで、ずっと「私」は「私」である。
認知機能は脳表面にあって、親の躾や学校の教育、社会から受けた教育など長年にわたるインプットの集大成です。この「認知脳」の下には喜怒哀楽の「感情脳」があります。そしてさらにその下には人間の核になる、その人らしさが詰まった脳があります。アルツハイマー病では一番上の「認知脳」の機能が失われ、次に「感情脳」が壊れていくのです。
ブライデンさんはやがて感情さえ壊れ、自分はどこへ行くのだろうと不安でいっぱいだったのです。ところが二冊目を書くころにはこの心配は消え、自分らしさだけの脳になって「私はもっとも私らしい私に戻る旅に出るのだ」と思い直した。「だから私を支えてください」と言っているのです。
同書p142-143
長谷川先生は、認知機能も感情も壊れてしまっても残るその部分を、「もっとも自分らしい自分」「自分らしさの詰まった部分」と表現されています。
私は、心の一番深くにある、最もその人らしい、その人の存在そのものを支えることがスピリチュアル・ケアなのだと思いました。
同書p143
その人の最もその人らしい、その人の存在そのものは最後まで残る。
その部分を支えることが、スピリチュアル・ケアだと先生は仰います。
認知症になると、何もかも分からなくなってしまうのではない。
親からの躾や教育された部分は壊れていっても、その人をその人たらしめる、核たる部分は残っている。
その部分を尊重したケアを行っていくことが求められている。
認知症も晩期にはほとんど反応がなくなり、寝たきり状態になってしまわれる方が多くいらっしゃいます。
そんな方々にどんなケアを提供することが、その方にとってベストであるのか、悩むことも多くあります。
そんな時、「その人たらしめる、核たる部分は残っているはず!」との信念を思い出したいと思います。
何か、反応があるはずと信じて、刺激を変えてみながら観察してみる。
諦めずに様々な刺激を入れてみる。小さな反応を見逃さないようにする。
そんな風にしながら、その人らしさを尊重するケアを探していきたいと思います。
最後に…
長谷川先生も仰る通り、認知症の世界は当事者になってみないと本当の所分かりません。
けれど、今は認知症当事者の方々もご自身の体験を本や講演で教えてくださっています。
その方々のお話を聞いて、少しでも認知症の方々にとっての世界がどのようなものなのか理解していきたいと思います。
どんなに私たちにとって不可解で理解できない行動であっても、その方にとっては必ず理由のある行動のはずです。
「何でそんなことを!」と思ってしまう前に、自分の認識とその人の認識の間にあるギャップを少しでも埋めていきたい。そのためには、その方の世界を知る必要があります。
高次脳機能について知ることは、もちろん認知症の方の世界を知る事につながります。
当事者の方々からのお話は、その方の世界を間接的に追体験することができ、とても勉強になります。
認知症ケアに携わる一人として、より良いケアを目指していく決意を新たにさせて頂きました。